丹治ひこ太

こだいらまちづくり日記

個別的自衛権でできること、新安保法案でできること

  個別的自衛権でできることとはなんなのか?原点に戻って勉強してみました。

  個別的自衛権とは「各国が自国に加えられた法益侵害に対して反撃する場合の自衛権」(山本草二「国際法 新版」有斐閣p732)です。

 そして、国連憲章51条によれば「武力攻撃が発生した場合」のみ行使できるとされています。これは、20世紀初めまで、ひろく「急迫不正の侵害」として本質的または死活的と判断される国家の権利と利益に対する侵害行為をすべて対象としてきたものを、限定したものだそうです(同上)。

 つまり、本質的または死活的と判断される国家の権利と利益に対する侵害行為があっても、日本に対する武力攻撃がなければ個別的自衛権は行使できないのです。

 ここで、新安保3要件の「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」という言葉が思い出されます。これは「本質的云々」という部分とほぼ同じ意味です。

  つまり、新安保法案では、米国が武力攻撃された場合には、日本が武力攻撃されていなくても、このような条件で自衛権を発動できるということです。

  この部分を可能とするために、個別的自衛権だけではなく、集団的自衛権を認めたいということになります。

  集団的自衛権を行使可能としながらも新安保3要件で限定的に運用する。でも、個別的自衛権だけではできない、この部分を行使可能に拡大する。

  その拡大された部分というのは、日本が武力攻撃されていなくても、シーレーン封鎖などされたら自衛権を発動できるということです。

  もちろん、米国が武力攻撃された場合のみです。

  それ以外のA国とB国が武力攻撃をしあい、A国が機雷を日本のシーレーンに巻いても日本は除去できませんし、日本にも米国にも武力攻撃していないC国が日本に対する嫌がらせで日本のシーレーンに機雷をまいても、新安保法案では何もできません。ここら辺のロジックで騙されないように・・・。

集団的自衛権の二つの定義

 基本に立ち返り、集団的自衛権という言葉の意義を調べてみました。

 芦部信喜先生(憲法)、山本草二先生(国際法)の著書によると、集団的自衛権の定義には、二つの見解があるのだそうです。知らなかった。

  1. 他国に対する武力攻撃を自国に対する武力攻撃とみなし、自国の実体的権利が侵されたとして、他国を守るために防衛行動をとる権利。
  2. 他国に対する武力攻撃を、自国の実体的権利が侵されなくても、平和と安全に関する一般的利益に基づいて、援助するために防衛行動をとる権利。

日本政府は、②説の立場をとり、それは憲法9条があるので、認められず、個別的自衛権のみ認められるとしてきたわけです。②をとれば当然でしょうね。

そして、安保条約の相互防衛は集団的自衛権の問題ではなく、あくまでも個別的自衛権、すなわち日本に対する武力攻撃に対する武力攻撃に対する防衛行為であると説いてきました。これはぎりぎりの解釈といえるでしょう。

 内閣官房のホームページのQ&Aには、「集団的自衛権とは、国際法上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利です。」と書かれてあります。

 一応、皮肉なことに、集団的自衛権の解釈自体は守っているようです。しかし、「自国の実体的権利が侵されていなくても」という部分がぼかされています。つまりは、書かないということでそういう意味を含んでいるという風に後から論理構成できるわけです。

 確かに、ぼかしておかなければ、集団的自衛権を認めておきながら、つまりは、「自国の実体的権利が侵されていなくても」やるんだと広げておきながら、「自衛の措置としての武力の行使の新3要件」で「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」という枠をはめて狭めているという怪しげな構造が明確になってしまいます。

 それは見せたくないのでしょう。集団的自衛権を認めなくても、個別的自衛権で済むんじゃないかと言われたくないわけです。

 だから、今回はどうしても、集団的自衛権を認めたかったのでしょう。

 それはなぜか?

 芦部先生の著書には、個別的自衛権では、駐留米軍に対する攻撃、たとえば日本の領海内の米軍艦船ないし日本の領空内の米軍航空機が攻撃を受けた場合、対処できないという説もあると書かれています。

 つまり、個別的自衛権では、アメリカの個別具体的な要求に対処できないことが多いからでしょう。アメリカンスクールに支配された(TPP交渉でもわかるようにダメダメな)外務省主導の今回の法案ということを考えればよくわかります。

 と、面倒くさいことを言いましたが、要は、今回の法案の目的は、国民を守るためではなく、アメリカの要求にこたえるためという構造がよく見えてきます。

 個別的自衛権では何ができないのかをしっかり考えてみれば、何をしたいのかが見えてくるでしょう。やってみよう。

マスコミの公平性について

 日本の法律では、放送に関し規制をかけ、プリント・メディアには自由な表現活動を保障しています。イギリス・アメリカ型の制度です。放送には、政治的公平性や論点の多角的解明などの番組編集準則の遵守(放送法3条の2、1項)もそうです。

 その根拠として、周波数帯の有限希少性と放送の持つ特殊な社会的影響力(直接性・即時性・強力性)が挙げられてきました。

 しかし、多チャンネル化し、社会的影響力も必ずしも相対的なもので一律に論じられないのではと疑問が投じられています。

 そこで、アメリカ発の部分規制論という学説が有力となっています。憲法学者、故芦部先生もその紹介者で、そのお弟子さんでいまや有名な長谷部先生もこの分野(マスコミ法)を引き継ぐように言われたそうです(朝日新聞の顧問をしているのもその理由です)。

 部分規制論とは、印刷メディアを完全に自由にし、放送だけ公的規制を加えれば、両者の微妙なバランスによって、(ここから芦部先生「憲法」第3版岩波書店171頁をそのまま引用します)「少数者の意見が放送に取りあげられたり」、放送に対する過度の規制が抑制されたりして、充実した思想の自由市場が確保されるという考え方です。

 もし、そうであるならば、放送における公平性とは少数意見を取り上げることにあるということが基本原則だと思います。政府=選挙による多数意見ですから、放送においては特に、政府の意見を多く取り上げる必要はないことになります。

 

「法治国家」を言う奴には気を付けろ!(「法治国家」と「法の支配」の違い)

 安倍首相が「法の支配」と「法治国家」という言葉を使い分けているのを知っていますでしょうか。まだ誰も指摘していないようです。

 彼は国際舞台では「法の支配」という言葉を使います。民主国家におけるグローバルスタンダードだからです。この言葉でないと国際的には通用しません。彼は、この言葉で中国とかをけん制します。

 しかし、国内向けには「法治国家」という言葉を使います。「法の支配」という言葉を使いません。

 どう違うのでしょうか?

 「法の支配」の対義語は「人の支配」です。つまり、人が支配すると国民の権利や自由が侵害される可能性があるので、法律によって権力を縛っておこうというものです。立憲主義の原理と密接に関連します。

 一方、「法治国家」は民主国家でなくても妥当します。権利・自由を侵害していている法律でもそれに従えというものです。

 これから安倍首相のこのダブルスタンダードを注意して聞いてみてください。

砂川事件最高裁判決の「レイシオ・デシデンタイ」。

 政府は、再び、砂川事件最高裁判決を持ち出してきました。原文を呼んだのははるか昔のことなので、再読してみました。

 大切なことは「レイシオ・デシデンタイ」を探すです。これは、判決の中で、一番大切な部分のことで、他の判決に対して拘束性をもつ部分のことです。政府が言う部分がレイシオ・デシデンタイでなければ、安保関連法制が合憲である積極的な根拠にならないことになります。判例にならないです。

 最高裁の判決文は、たいてい、本文と、裁判官の個別意見に分かれます。レイシオ・デシデンタイは本文にあります。

 この事件は、立川基地に立ち入った拡張計画反対運動の学生を旧安保条約に基づく特別法で起訴したことが妥当かどうかを問うものです。基礎となる旧安保条約が違反なら不当ということになります。

 まず、判決文は余計なことは言わないようにします。個別具体的な事件の紛争解決ために最低限必要なことだけを述べます。紛争さえ解決できればいいからです。

 この事件の場合、米軍の駐留が9条に反するかどうかを問うだけのものです。その前提として「戦力」(駐留米軍は「戦力」ではない。9条の禁じる「戦力」は日本が管理しているものだけだから)を使わない個別的自衛権は認めているのは確かです。

 しかし、「戦力」(今の自衛隊も「戦力」に当たらない)を使わない集団的自衛権を認めているかどうかはわかりません。米国からの片務的な「相互防衛」を認めていても、日米の双務的な集団的自衛権まで認めているかどうかは読み込めません。触れていないということは、否定しないとまでは解釈できますが、肯定しているとまではいえません。必要最小限が判決なのです。

 ここで勝負ありなのですが、さらに探っていきましょう

 レイシオ・デシデンタイは他の判決とも比較しなければわかりません。その後のこの判決文の引用のされ方を見ると、次のいわゆる統治行為論の部分は間違いなく該当すると思います。

 「本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。」

 「終局的には」「国民の政治的批判」というところを、政府が省略しているご都合主義は他の方に批判してもらうこととして、今回は「一見極めて明白」というとこにこだわります。 

 つまり、個別的自衛権を9条が容認しているという部分さえ、一見極めて明白に違憲無効かどうかを判断するために持ち出しているのであって、レイシオ・デシデンタイとするのはためらっていいのではないでしょうか。要は、9条は個別的自衛権を認め、米軍の駐留は「戦力」に当たらないと解釈できなくもないという程度のことでしかないのではないでしょうか。「一見極めて明白」って相当な言い方ですよ。いわんや、集団的自衛権の容認をや、です。

 結論。集団的自衛権を容認しているとはレイシオ・デシデンタイであるとは「全くもって」いえません。

シンポジウム「立憲主義の危機」に行ってきました。

 6月6日東大で行われた立憲デモクラシーの会のシンポジウム「立憲主義の危機」に行ってきました。

 このタイミング、出席者が佐藤幸治先生、樋口洋一先生、石川健二先生(上級憲法を教わりました)、杉田敦先生!しかも、佐藤先生は長谷部先生を憲法審査会に呼ぶ前に「都合のつかなかった」先生!

 出席者は1400人。急きょ教室を二つ追加し、IWJさんの放送を生中継するという混雑ぶりでした。静かながらも異様な熱気さえ感じられました。観客の中には子連れの木村草太先生(長谷部ゼミでした)も。

 まずは、佐藤先生の基調講演。歴史に学ばない民族に発展はないと立憲主義の歴史をしっかりと講義。憲法の根幹=立憲主義を安易に変えるようでは立派な国は作れないと現政府の動きを批判。(先生は行革、司法制度改革の重鎮。橋本元首相が沖縄にきめ細かい対応していたことにも触れ、それに比べて・・・と嘆く場面も。審査会には海外に行くので都合がつかなかったなんて政府は言っていましたけど、嘘に決まってます。態のいいお断りだったんでしょう。)

 シンポジウムでは、石川先生が戦前の巨匠、佐々木惣一先生の「違憲合憲」以外に「立憲・非立憲」という区別があるという指摘に触れ、佐藤先生は「非立憲」は政治家が絶対にやってはいけないこととして佐々木先生が述べたものと補足し、樋口先生は96条改正の動き、米議会での日本議会を無視したお約束、戦争法案、これらは「非立憲」そのものと断じました。

 石川先生が「深く明るく考え」ようと社会学見田宗介先生の言葉でまとめたのでした。

なぜ差別するのか?長谷部先生の説から思うこと

 「ルック・オブ・サイレンス」の試写会に行ってきました。

 なぜ普通の人々が大虐殺に加担していくのかという問題は別に譲るとして、虐殺のきっかけが「共産主義者」というレッテル張りから始まったことに注目したいと思います。

 今や有名になってしまった長谷部先生は、なぜ人は差別をするのか、についてR・ポズナーを参考に、「情報費用を節約しようとする行動が差別につながる」と述べています。

 インドネシアの9月30日事件を例にすれば、その人に信仰心(イスラム)がないかどうかを正確に判断することのむずかしさを節約して、「共産主義者」というレッテルで判断してしまったというわけです(もちろん、だから殺していいという話とは別です)。

 僕は、はじめて法科大学院で、このロジックを聞いたときになんか無味乾燥なことを言っているなと思ってすっきりきませんでした。

 しかし、最近、ネット右翼と言われる方々やある国の首相の言動や、ヘイトスピーチを耳や目にするごとに、これらは情報費用を節約しようとしているのだなと実感するようになりました。

 要は、社会問題の単純な解決を求めているのだと思います。現在の社会状況はますます複雑になってきています。こうした中で正解を出すことは極めて難しい。複雑な社会を複雑に考えることが面倒だったり、複雑に考えるだけの知性を持ち合わせていたりしないと、情報費用を節約しようとしていきます。

 正しい答えを出すことはとても難しく、道のりは長いものです。しっかりと考えていきたいものです。

 たとえば、集団的自衛権によせていえば、味方の敵が敵なんていう単純な図式があるわけないでしょう。ある面では敵でもある面では味方かもしれない。

 それに、そもそも味方が常に正しいわけでなく味方の敵が正しいかもしれないし、味方に加担することが国益を損なうこともあるのです。

 そういう意味では、「同盟」ということも「情報費用の節約」の一種なのかもしれません。

問い合わせ先:hikotatanji@gmail.com