丹治ひこ太

こだいらまちづくり日記

MMTは支持する、財政出動も支持する。しかし、ここが藤井聡氏らの自民党的財政出動論者との私の分水嶺なのだ。

 このところ、財政論、特に貨幣論ばかり論じていたので、原点に戻り、これからはじっくり、「まちづくり」について論じていこうと思う。
 さて、本日、衆議院予算委員会の中央公聴会で、公明党推薦の国土学総合研究所の所長で全日本建設技術協会会長の大石久和氏が意見を述べた。
 ご存知の通り、国土交通大臣公明党の牙城だ。そして、この大石久和氏は、財政出動論者の藤井聡氏のお師匠さんで、藤井聡の勉強会にも登壇している。
 したがって、基本的には、藤井聡氏のMMT理論をベースにした(大石氏は経済畑ではないのでこの点については踏み込まない)財政出動を唱え、インフラに投資すべきと主張する。

 徐々に、安倍政権の足元から異なった(財政規律的、財務省的ではない)動きが出始めたとも言えよう。ただ、今回の論点は違うところにある。
 MMT的に財政を考え、積極的に財政出動をし、インフラを整備することについては私は賛成である。インフラの老朽化対策は急務であり、自然災害に対する備えも大切である。

 ただ、私は、ゼネコン大手よりも、地方の関連業者中心に利益を得させ、地方経済を活性化するインフラ整備をすべきと考えている。

 この点に関しては、藤井氏や大石氏のインフラ投資の考え方は大手ゼネコン型の旧態然としたものに傾向している。例えば、高速道路を作って、インター付近に大きな物流拠点を作るといった具合だ。
 これには理由があると考える。
 おそらく、大石氏、藤井氏らが、あれほど財政出動を主張し、MMT理論を論じる目的は、それで捻出した財政をインフラ投資に回し、ゼネコンや土木関連学会を利するということにあるからだろう。

 もちろん、経済が活性化し、国が富むという目的がないというわけではない。しかし、やはり、そこには田中角栄の時代から通ずる旧自民党的な力があることは否定できない。それでなければ、大きな講演会も開ける藤井聡氏の資金力が説明できない。
 もちろん、それらがだめというわけではない。しっかりと、地方にお金が落ちるとともに下請け業者で働く労働者にまともな賃金が払えるような仕組みができていれば問題がない。
 つまり、そうした条件が担保されなければやるべきではない。格差が広がるだけだからである。
 さらに、こうした旧態然たる国土開発には、大きな間違いがあると考えている。

大きく言えば、三つある。①一度決めたことを時代や環境が変わっても見直さない硬直的なものであること。②計画の策定に住民参加を取り入れず、あったとしても形骸的であること。③大切なのは建築物ではなく、コミュニティであること。建築物が残っても、コミュニティが残らなければ意味がないこと。

こうした、現状の国土開発の問題点と代替案をこれから述べていきたいと思う。

MMTはなぜ人を不安にさせるのか?(大澤真幸「資本主義の錬金術」(1987)再読)

 MMTというものを知った時、一種の懐かしさを感じざるを得なかった。

 30年以上前に、いわゆるニューアカデミズムブームの中で、「構造と力」(浅田彰)、「マルクスとその可能性の中心」(柄谷行人)、「経済人類学」(栗本慎一郎)といった業績は、資本主義の不確実性を述べていた。それと同様なものをMMTに感じとったのだ。

 その中で、極めてMMTに近似していたものがあったはずだと、年末、雑然とした本棚をひっかきまわして、出てきたのが大澤真幸著「資本主義のパラドックス」(1991:新曜社)だった。その中におさめられている「資本主義の錬金術」は、当時は経済的知識も論理的読解力もなく、全く理解できなかったが、今、MMTを通して読むと極めて先駆的だったと考え直す。

 題名が指し示すように、貨幣は誰でも発行できるという意味で資本主義における「錬金術」性を前半部分で分析する。「錬金術」といってもこれは、ペテンではなく否定できない事実でしかないのだが。逆説的に言えば、資本主義とはペテンでしかない。

 MMTでも、全く同じ分析をしてみせ、新古典主義的主流派経済学者に「これはあなたたちも否定できない事実ですよね」と提示し、そこから、だから、デフレ期は赤字国債を出しても財政出動すべきだと具体的な経済政策へ展開していく。

 大澤は現代思想の文脈で論を展開するから、前半部分で「いわゆる「信用創造」の機制に基づく信用貨幣の創出・・・それは、本当の創造、無からの創造である。・・・しかし、なぜこのような無根拠によって貨幣を機能させることができるのか?」と貨幣の無根拠性を描き出し、その無根拠がなぜ成立していくのかという問いを立て、後半部分でその理由を分析していく。

 そして、その結論は、「資本制のもとにある社会が自己維持しようとすれば、それは不確実な可能性に賭けるしかなく、信用貨幣は、このことの表現なのだ。つまり、信用貨幣は資本主義の宿命と不安の産物である」と無根拠に根拠を与えることなく終わる。
 MMTは無根拠の根拠を探ることはない。彼らは、資本主義の宿命を覚悟し、不安のままに、その中で生活をしていく多くの人々にいかに多くの幸福を与えるかを探っていく。

 主流派経済学者が、MMTをペテン師扱いするのはもっともである。なぜなら、再度繰り返すが、資本主義はペテンでしかないからだ。しかし、そのペテンの中で我々は生きていしかないのだ。その中でより良き生をいきていくしかないではないか。

 貨幣はゼロ記号という意味では神に近い。神は無根拠の中で人々が寄り縋る根拠だ。MMTはそれはないという。それは人々を不安に陥れる。MMTは「神は死んだ」(ニーチェ)と宣言する。そして、「神がいなければ、すべてが許される」(ドストエフスキー)と政策提言する。新古典主義主流派経済学者はそれに耐えられない。なぜなら、彼らは「神の見えざる手」(アダム・スミス)を信じているからだ。

大西つねきのいう「政府紙幣」についての補足

刑法148条1項(通貨偽造)には、「行使の目的で、通用する貨幣、紙幣又は銀行券を偽造し」とある。

お亡くなりになった西田典之先生は、このくだりに触れるたび、必ず、「みなさん、ここにある「紙幣」というのは現在日本にはありませんから、皆さんの持っているお札は銀行券だからね。お札に何と書いてありますか、日本銀行券って書いてあるでしょ」と言われた。

私は、この言葉を聞くたびに、じゃ、紙幣って何だろう。どうして紙幣はないんだろう。どうして、銀行券なんだろう。と、そっちの方ばかり気になり、刑法の授業の本質的な部分を聞き逃し、ついには、こんなざまです。

「紙幣」とは政府が直接発行する紙幣のことです。
それにどういう意味があるかは、大西さんの説明を聞くとよくわかります。
無利子国債化、景気浮揚の効果とかあるのですね。

山本太郎氏の金融財政論が今一つ腑に落ちない人のために


大学時代の、愛すべきくずな露文の友人たちは、4年間ずっと麻雀をやり続けていた。
優等生だった私は、くず野郎どもと一線を画し、徹マンをやっている横でぐうぐう寝ていた。
当然、露文に来るようなくず野郎にはお金がない。しかし、お金をかける(違法だけどね)。賭け事の場合、その全員の持ち金を上限にしてかけるということはしない、点数当たりいくらとかやる。つまり、上限以上の「架空の」お金が発生する。
彼らは、そうやって、麻雀をやるのだが、4年間ずっと清算しなかった。

数字上の貸し借りだけが存在し続けた。

卒業の時、当然清算するのだと思っていたが、またやろうぜと言って、結局清算しなかった。

その時、おいおい、そこのくず達、お金はどうなるんじゃいと思ったが、もしかしたら、こいつら高等な金融行動をしているんじゃないか、いや、そもそもお金とはそういうものなのかもしれないと思った。もちろん、経済学に劣等感がある文学部の私は、それを理論的に突き詰める知識はなかった。
今になり、新しい財政金融論が気になりだし、このところ、原稿の上がりが遅く、仕事に余裕が出て、そればかり調べたり、考えたりしている私は、この麻雀をする友人たちの間に、政府とか、銀行を介在させたらどうなるのだろうかと思考実験している。


と、長い前置きでしたが、そんな中で、最終的に、一番腑に落ちる参考になる考え方をしている人は、大西つねき氏です。
れいわ新選組で立候補した方なので、山本太郎氏の金融財政論がわかりづらい、不十分という方はこの方の説明を聞くとすっとわかります。

一番鋭いのは金利の問題をいれているところです。
MMT理論についても、緊縮財政論よりましで、古い考え方の突破口だが、本来はこういう方向に進むべきだというものも述べられています。

ベーシックインカムへの道も見えてきます。

柄谷行人氏が「世界史の構造」で語った「D」の道も見えてくるような気がします。

裁判官の判断が腑に落ちないという人のために

 山本太郎氏の街頭記者会見を見ていて、一定のルールで質問されるとばかりとはいえない場で、誠実に答えようとする姿には、正直、頭が下がる。ルールから外れかかっている質問に、おいおいとため息を漏らしたくもなるが、議会とか会議の場でない荒野のような場で、そういう「声」(あえてそう呼ばせていただく)に丁寧に耳を傾けるそれが政治家の役割なのだと自戒する(私は政治家ではないが)。そして、それを議会という場でルールにのっとった形で提出し、論議するのが政治家の役割なのだと考える。
 そんな中で、いわゆるルールにのっとった形で要約すると、「裁判をやっているが、裁判官の判断が腑に落ちにない、行政の方ばかり向いた判断をする、どうにかしてくれないか」という要望があった。
 山本氏も自分自身の原発訴訟の経験にそって一定の回答をしていたが、政策という形に結実していなかったので、そのために補足をしておく。


 「法曹一元化」。

 これを政策に掲げるのはどうだろう。

 単純化していうと、日本の裁判官が官僚化していくのを変えるということだ。

 日本の裁判官は、裁判官として採用され、上司の人事権によって裁判官として出世する(もちろん、現在は弁護士から裁判官になる制度もある。ただ、ごくわずかで「交流」レベルだ)。当然、官僚化する。官僚化できない人は辞めて弁護士になってしまう。

 この裁判官のキャリア形成を変えなければならない。そのための政策が「法曹一元化」である。

 例えば、アメリカでは、まずは弁護士になり、経験を積んでから、裁判官に選ばれる。この選ぶ過程を民主化することで、官僚化が防げる。

 東京弁護士会はこう提案しており、参考にしていただきたい。

 「法曹一元化」とは、

(1)

市民も加わった裁判官推薦委員会が、社会経験豊かな弁護士を中心とする法

律家の中から、もっとも適切と思われる人を公平・透明な手続で裁判官とし

て選任しようとする制度であり

(2)

任命された裁判官は、すべて同等とされ、司法行政による不公平な待遇差別

や意に反する任地異動などを受けることなく、裁判官会議を実効あるものと

して復活させ、自由で独立した身分が形式的にも実質的にも保障される制度

でありまさしく「市民による、市民のための」司法を実現する制度である。

 https://www.toben.or.jp/message/ikensyo/post-227.html

 

 
 

「消費税が法人税の穴埋めに使われている」という山本太郎氏の主張が腑に落ちない人のための補足

 山本太郎氏は「消費税が法人税の穴埋めに使われている」と主張する。わかっている人ほど「え?」と思う。「消費税って社会保障財源として使われることになったんじゃない」と。
 だから、氏が消費税増税分と法人税減税分が一致しているグラフを見せても、「単に一致しているだけではそう断言することは無理じゃない」と思ってしまう。
 確かに、消費税法1条2項には、「消費税の収入については、地方交付税法(昭和二十五年法律第二百十一号)に定めるところによるほか(筆者註:地方税部分があることもお忘れなく。昨日の記者クラブでの氏の会見で、地方の経済的疲弊に対し消費税を地方税のみにしてしまうということは考えていないかという記者の質問は、ここを踏まえている)、毎年度、制度として確立された年金、医療及び介護の社会保障給付並びに少子化に対処するための施策に要する経費に充てるものとする。」とある。
 しかし、「消費税と社会保障経費4経費を管理する特別会計は設置されていない」(梅原英治「消費税の「社会保障目的税化」「社会保障財源化」の検討」大阪経大論集第69巻第2号)のだ。
 「目的税化」していても、特別会計化されておらず、一般会計の中に入ってしまっているのだ。他の財源と一緒に財布に入り、社会保障費以外の予算と一緒に支出されている。お金に色はないから、消費税と社会保障費との対応関係はわからない。
 もちろん、消費税で社会保障費がすべて賄えていれば、消費税増税分が社会保障費増加分とならなければならないので、そうなっているかどうかで一応のチエックはできる。しかし、常に不足しているので、現時点では社会保障費に使われているとは言い切れないのだ。
 そこで、山本太郎氏の主張が意味を持ってくる。法人税の減税分と消費税の増税分がきれいに対応しており、つまりは穴埋めに使われているのではないかということだ。それが意図したものでないとしても(少なくとも、財務省はこの一般会計でのどんぶり勘定状態をうまく利用して消費税増税の国民への説得材料としている)、結果としてそうであるならば、間違いなく、法人税を減税しなければ、消費税は増税しなくてもよかったということはできる。
 彼の言っていることは正しい。
※上記、梅原論文はこの点について、詳細に論じている。ネット上でも閲覧できるので、参考にしてほしい。

ヘイトスピーチと表現の自由、そして定義づけ衡量

 ヘイトスピーチと例えば政治的言論といったその他の表現とでは自由が質が違うということ理解していない人や、違いはあると思うけどどう違うかが正確な理解ができていないという人がいらっしゃると思う。
 憲法学的には、違うとされている。
 例えば、芦部信喜憲法」にはこう書かれている。

 「性表現・名誉棄損的表現は、わいせつ文書の頒布・販売罪とか名誉棄損罪が自然犯(筆者註:社会規範からして自明の犯罪)として刑法に定められているので、従来は、憲法で保障された表現の範囲に属さないと考えられてきた」
 ヘイトスピーチは「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(ヘイトスピーチ法)が存在している以上、この「従来は、憲法で保障された表現の範囲に属さないと考えられた類型」に入る。
 なぜ、そうなのかというと、例えば、長谷部恭男「憲法」にはこう説明されている。
 「これらの行為類型を定義する際に、規制を正当化する利益と憲法上の自由との衡量がすでに行われていると理解されることになる」
 つまり、立法(議会)の過程で、民主主義的に議論がされて、一定の決着がついているということになるからだ。

 芦部はつづけて、こう説明する。

 「しかし、そのように考えると、わいせつ文書なり名誉棄損の概念をどのように決めるかによって、本来憲法上保障されるべき表現まで憲法の保障の外におかれてしまうおそれが生じる。そこで、わいせつな文書ないし名誉棄損の概念の決め方それ自体を憲法論として検討し直す考え方が有力になってきた。つまり、それらについても、表現の自由に含まれると解したうえで、最大限保護の及ぶ表現の範囲を確定していくという立場である」「この立場は、性表現について言えば、わいせつ文書の罪の保護法益(筆者註:その罪が保護している利益)・・・との衡量をはかりながら、表現の自由の価値に比重をおいてわいせつ文書の定義を厳格にしぼり、それによって表現内容の規制をできるだけ限定しようする考え方で、定義づけ衡量(definitional balancing)論と呼ばれる」
 もちろん、この類型は、この類型に属さない表現に比べれば緩く違憲審査がなされる(憲法学では、表現の自由の重要性をそれを規制する法律が違憲であるかどうかの審査の際の厳しさで考える。重要性が低ければ緩い審査でよく、重要性が高ければ厳しい審査が必要となるからだ)。つまり、この類型の重要性は低いとされる。
 合憲性の判断の具体的方法を、長谷部はこう説明する。「まず憲法が当該行為類型についてどのような定義を要求しているかを判断しているうえで、問題となった規制が、その行為類型の定義に該当するもののみを規制の対象としているか否かによって行われる。」

問い合わせ先:hikotatanji@gmail.com