丹治ひこ太

こだいらまちづくり日記

MMTはなぜ人を不安にさせるのか?(大澤真幸「資本主義の錬金術」(1987)再読)

 MMTというものを知った時、一種の懐かしさを感じざるを得なかった。

 30年以上前に、いわゆるニューアカデミズムブームの中で、「構造と力」(浅田彰)、「マルクスとその可能性の中心」(柄谷行人)、「経済人類学」(栗本慎一郎)といった業績は、資本主義の不確実性を述べていた。それと同様なものをMMTに感じとったのだ。

 その中で、極めてMMTに近似していたものがあったはずだと、年末、雑然とした本棚をひっかきまわして、出てきたのが大澤真幸著「資本主義のパラドックス」(1991:新曜社)だった。その中におさめられている「資本主義の錬金術」は、当時は経済的知識も論理的読解力もなく、全く理解できなかったが、今、MMTを通して読むと極めて先駆的だったと考え直す。

 題名が指し示すように、貨幣は誰でも発行できるという意味で資本主義における「錬金術」性を前半部分で分析する。「錬金術」といってもこれは、ペテンではなく否定できない事実でしかないのだが。逆説的に言えば、資本主義とはペテンでしかない。

 MMTでも、全く同じ分析をしてみせ、新古典主義的主流派経済学者に「これはあなたたちも否定できない事実ですよね」と提示し、そこから、だから、デフレ期は赤字国債を出しても財政出動すべきだと具体的な経済政策へ展開していく。

 大澤は現代思想の文脈で論を展開するから、前半部分で「いわゆる「信用創造」の機制に基づく信用貨幣の創出・・・それは、本当の創造、無からの創造である。・・・しかし、なぜこのような無根拠によって貨幣を機能させることができるのか?」と貨幣の無根拠性を描き出し、その無根拠がなぜ成立していくのかという問いを立て、後半部分でその理由を分析していく。

 そして、その結論は、「資本制のもとにある社会が自己維持しようとすれば、それは不確実な可能性に賭けるしかなく、信用貨幣は、このことの表現なのだ。つまり、信用貨幣は資本主義の宿命と不安の産物である」と無根拠に根拠を与えることなく終わる。
 MMTは無根拠の根拠を探ることはない。彼らは、資本主義の宿命を覚悟し、不安のままに、その中で生活をしていく多くの人々にいかに多くの幸福を与えるかを探っていく。

 主流派経済学者が、MMTをペテン師扱いするのはもっともである。なぜなら、再度繰り返すが、資本主義はペテンでしかないからだ。しかし、そのペテンの中で我々は生きていしかないのだ。その中でより良き生をいきていくしかないではないか。

 貨幣はゼロ記号という意味では神に近い。神は無根拠の中で人々が寄り縋る根拠だ。MMTはそれはないという。それは人々を不安に陥れる。MMTは「神は死んだ」(ニーチェ)と宣言する。そして、「神がいなければ、すべてが許される」(ドストエフスキー)と政策提言する。新古典主義主流派経済学者はそれに耐えられない。なぜなら、彼らは「神の見えざる手」(アダム・スミス)を信じているからだ。

問い合わせ先:hikotatanji@gmail.com