丹治ひこ太

こだいらまちづくり日記

人間の尊厳

 Eテレの番組「シリーズ戦後70年 障害者と戦争 ナチスから迫害された障害者たち」を観ていたら、ドイツ人の方が「人間の尊厳」という言葉を口にしていた。

 ドイツ連邦共和国基本法1条1項は「人間の尊厳」の絶対不可侵を謳う。この言葉の背景にはドイツ人のナチスに対する反省がある。

 日本国憲法の「基本的人権」も「人間の尊厳」性に由来することに異論はない。

 ただ、「個人の尊厳」(24条2項)(=「個人の尊重」(13条))と「人間の尊厳」がまったく同じなのかどうかに関してはいささか議論がある。

 基本的にはそんなに変わりはない。それは間違いない。

 高橋和之先生は、「人間の尊厳」は「人間を非人間的に扱ってはならないこと、人間としてふさわしい扱いをすべきことを意味」し、「個人の尊厳」は「個人と全体(社会・集団)との関係を頭に置いた観念であり、全体を構成する個々人に価値の根源をみる思想を表現して」おり、だから「個人の尊厳」が特に結婚・家族に関する24条にあるのだとする。

 そう考えると「人間の尊厳」はカントの道徳法則の第二方式(「汝自身の人格にある人間性、およびあらゆる他者の人格にある人間性を、つねに同時に目的として使用し、けっして単に手段として使用しないように行為せよ。」)に近似する。

 一方、「個人の尊厳」については個人の「自由」に親和的と考えられ、青柳幸一先生(不祥事が先生の業績を損なうものではない)が述べられるように独文化と英米仏文化の差異をそこに読み込むことも可能であろう。

 私はこの二つの言葉に差異を見出すことに意味があるのではないかと考える。

 たとえば、冒頭に述べたナチスの虐殺さらされた障がい者にふさわしいのは「個人の尊厳」というよりは「人間の尊厳」という言葉ではないだろうか。極論すれば、「自由」や「人権」でもないだろう。

 現代においてはこの言葉はさらに重要な意味を持っていると考える。

 たとえば、人間に対する遺伝子操作である。学問・研究の自由(「個人の尊厳」)と生命倫理(「人間の尊厳」)という憲法上の対立利益として。

 数年前におそらく青柳先生が出題したのだろう新司法試験の生命倫理に関する憲法の問題も先生はそこまで考えていたのではないかと、後々になって想起する。

 このところ、「人間の尊厳」という言葉を吐き出したいと思う機会が多い。

 福島や沖縄の方々もこの言葉を吐き出したいのではないだろうか。

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